この記事では、私のアマチュア演奏家としてのコンクールとの向き合い方をまとめます。
過去にコンクールに参加して、良い演奏が出来ず、賞も取れず、もやもやしたこともありました。
冷静に振り返って「単に下手だったから」では片付けられない自分の未熟さがありました。
記事を書くために改めて考えてみると、コンクールとの向き合い方に答えを見つけました。
あくまで私個人が辿り着いた正解の一つに過ぎないので、他の方に押し付ける気はございません。
賞を取る「だけ」が目標では、寂しい
高校野球では、球児達の全員が甲子園出場や優勝を目指して努力します。
高校球児の全員がプロになれるわけでもなく、ましてや全員がプロを目指しているわけでもありません。
全力を尽くして相手と戦い、その姿が観る人を魅了します。
音楽においても、全力で演奏した結果により感動がもたらされます。
ただし、コンクールにおいて賞を取ること「だけ」が目標だったなら、音楽の本質からずれていると感じます。
全力で努力してはいながらも、コンクールの結果だけを目標にしていては「寂しい・虚しい」です。
音楽はスポーツとは違う
音楽の本質は「聴く人に何かを伝えること」だと思います。
(個人的な定義です)
スポーツの場合は、対戦相手が存在すれば成立します。
球技や格闘技はその最たる例です。
個人種目のスポーツにおいても、あくまで競技として見ると対戦相手と比べられます。
(陸上競技、体操、スキー、スノーボード等)
対戦相手と努力の結果を競い、お互いの努力を認め合うことが出来ます。
スポーツに対して、音楽は聴いてくれる人がいなければ成立しません。
一人で弾いたら、あくまで練習の域を出ません。
無観客でコンクールを行った場合、そこにいるのは演奏者と審査員のみとなります。
審査員しかいない状況での演奏は、純粋な聴く人がいないため「音楽と個人種目のスポーツが近い状態」になると思っています。
(審査員は、あくまで審査として音楽を聴きます)
そうすると、音楽の本質からズレているように思います。
コンクールの結果「だけ」しか追い求めていない演奏家は、聴く人でなく審査員の評価を求めます。
それは、音楽を競技と見なしています。
演奏を届ける相手として、審査員しか意識されていない音楽は空虚です。
「優勝がゴール」ではない
グレードの高いコンクールでは特にそうですが、「優勝がゴール」ではありません。
コンクールを主催する側は「賞を取ったこと」と「コンクールのために努力し成長したこと」を活かして、演奏家として豊かなキャリアを送ってほしいと願っています。
(そう考えると、同点なら「若い人」「プロ志望の人」を勝ちとすることにも納得出来るかと思います。)
まさに登竜門という言葉がふさわしく、「演奏家」と「コンクール」はお互いに高め合うべきです。
プロにならないアマチュア演奏家だったとしても、音楽と真剣に向き合っているなら「コンクールの優勝がゴールではないこと」について深く考えてみるべきだと思います。
この点について考えが浅ければ、「コンクールの結果」そのものに簡単に振り回されてしまいます。
「認められたい、聴いて欲しい」と思うのは自然
「結果を求めてコンクールに出ること」を否定するようなことを書きました。
しかし、「誰かに認められたい、演奏を聴いて欲しい」と思うことは自然なことです。
「聴く人に何かを伝える」という音楽の本質にもマッチしています。
これで、「コンクールには出ない!」が答えではないことが分かります。
もう少し深堀りして、コンクールに出る理由を考えてみます。
コンクールに求めるもの、考え方
私がコンクールに求めるのは以下の通りです。
- 聴く人に自分の演奏を伝えること
- 演奏に自分で納得出来るかどうか
- もちろん賞も欲しい
これはそれぞれ、「聴く人」「自分」「審査員」が求める矛先になっています。
自分の努力で変えられないものに悩んではいけない
「影響が及ばない範囲のことに対して悩んではいけない」という言葉があります。
例を上げると、「仕事の成果」は自分の努力でコントロール出来ます。
ただし、上司や他人の評価はコントロール出来ません。
「成果は上げているけれど、態度が気に食わない」とか、「この成果は偶然だ」と言われるかもしれません。
他人がどう思うかは、コントロール不可能なので悩む必要はありません。
コンクールでの演奏にも、これと同じことが言えます。
コンクールの結果には悩まない
自分の演奏に対して、他人がどう思うかをコントロールすることは出来ません。
そのため、「審査員がどう思ったか」も同じです。
つまり、コンクールの結果はコントロール出来ないことです。
コンクールの結果について、悩むことは間違っています。
これを知ることで、審査結果に文句を言う人が滑稽に見える筈です。
「誰かに演奏が伝わったか」についてはこだわる
私は「誰かに演奏が伝わったか」についてはこだわりたいと思っています。
これは、先程の「他人がどう思うかをコントロール出来ない」と矛盾しています。
コンクールの結果のためには「審査員の過半数がどう思うか」をコントロールする必要があります。
これは極めて難しいことです。
「誰かに演奏が伝わったか」については、沢山いる観客の中で何人かに伝われば良いのです。
音楽においては、演奏が伝わった「人数」よりも「深さ」の方が重要です。
アンテナやリテラシーが無い人には、伝わらない音楽もあります。
この屁理屈により、「誰かに演奏を伝えること」は自分の努力でコントロール出来ることが分かりました。
これまでの演奏の経験上、自分で納得した演奏が出来れば、何人かには演奏が伝わると考えています。
最後にちょっとシビアな話をします。
音響の悪い会場でのコンクールには参加しない
今後、音響の悪い会場で開催されるコンクールには極力参加しないつもりです。
主催のギタリストの先生方が会場の予約に尽力なさっているのは重々承知しております。
ですが、努力の量とサービスのクオリティは無関係です。
「1日16時間かけて作った平均以下のギター」があっても、だれも買わないでしょう。
演奏も同じです。
しかし、コンクールでは体験の質が低くても、参加者はゼロにはなりません。
「倍率が下がって入賞しやすくなる」と考える人がいるためです。
音響の悪い会場でのコンクールは、どうしても「良い演奏を聴きたい」という通なお客様が来にくくなります。
参加者のレベルも高くない場合が多く、それにより集客も悪いと思われます。
そういった場で演奏すると、コンクールに参加する目的のうちの「聴く人に演奏を伝えること」と「自分で納得できる演奏をすること」の達成が難しくなります。
これにより、コントロール出来ないと諦めた筈の「コンクールで結果を出すこと」の重要度が高くなってしまいます。
「音響も悪いし、演奏も失敗したし、耳の肥えたお客さんもいないし、参加費が無駄になった!」というのは、理性と分別がある人なら決して言ってはいけないことです。
(思ってもいけません。)
しかし、これを言いそうになる状況に自分を誘導しないようにするのも、また理性と分別だと思います。
安易に音響の悪い会場のコンクールに参加するのはよろしくないと思いました。
音響の悪さと相性の良い奏者が入賞出来たとしても「その場限りの受賞の喜び」というごく短期の承認欲求の満足で終わってしまいます。
コンクールがゴールではありません。
今回の記事は以上となります。
この記事で書いたことを理解していれば、私も「審査の結果に文句を言うおじさん」に戻ることは無さそうです。
最後までご覧頂き、誠に有難うございました。