過去にラティスブレーシングやダブルトップ、レイズドフィンガーボードについて書きました。
最新構造(レイズドフィンガーボード、ダブルトップ等)のギターについて考察する。 – クラシックギターの世界
過去の記事の内容は、以下の通りです。
- ラティスやダブルトップ以外の構造的工夫は概ねトーレス以前で使われており、新しいものではない。
- それぞれに長所・短所があり、積極的に採用されなかったのには理由がある。
- 表面板のラティスやダブルトップ、カーボン弦等、過去に存在しなかった技術と組み合わせることで新しい可能性がある。
最近、ラティスブレーシングやダブルトップについて思うことを書きます。
音色の変化は付けられる
表面板がラティスブレーシングやダブルトップであっても、音色の変化が付けにくい訳ではありません。
ただし、音色を変えるためのアクションは大きくなります。
ダブルトップやラティスは元々音が出しやすい構造です。
タッチにあまり気を使わなくて良いため、手が緊張していない状態から音色を変えにいくことができます。
結果として、音色の変化を加えるのが難しいという感覚はありません。
これはダブルトップやラティスと相性が良い奏者の視点です。
(私はダブルトップとは相性が悪いため、音色が変えやすいという感覚はありません。)
松のラティスはファンブレースの通常のギターと比べてそこまで鈍い反応ではないと思います。
よって、音色の変化もファンブレースより少しルーズになる位です。
杉のラティスのギターは更にルーズになりますが、多めに変化を加えると音色が大きく変わります。
「ダブルトップ・ラティスは音色の変化が付けにくい」というのは、それらのギターユーザーから怒られてしまうと思います。
海外のコンクール等で活躍する奏者はダブルトップやラティスでファンブレースを超える音色の変化を付けています。
ラティスブレーシングについて
ファンブレース(扇の力木)が伝統的なのか
誤解を恐れずに言えば、私はトーレス・パノルモ由来のファンブレーシングが必ずしも伝統的とは考えていません。
リュートやバロックギター、19世紀ギターは木目に対して垂直に力木が配置されております。
これらに対してファンブレースは後発の手法であることを考えると、1900~2000年代前半に良く使われた手法として今後は衰退してしまう可能性もありえます。
(極論です)
現代人は、自動車や電車、飛行機、機械等の騒音に囲まれ、スマホやパソコンから多くの刺激を受けています。
刺激に慣れた現代人が楽しめる音を出すには、ファンブレースは不向きなのかもしれません。
ギターがラティスブレーシングに舵を切るのは、思いのほか自然の流れではと思わなくも無いです。
均一が良くない気がする
ファンブレーシングが絶対のものではない可能性を書きました。
しかし、黎明期のラティスブレーシング等の音質はまともに聴けたものではないと思います。
以下にラティスブレーシングではないのですが、音色が気に入っていない演奏を貼りました。
イリーナ・クリコヴァ氏は素晴らしい演奏家です。
しかし、サイモン・マーティ(ラジアルブレーシング)の音色では、録音としては耳に刺さるため長時間は聴きたくありません。
(広い会場での生演奏では問題ないと思いますが)
ロバート・ラックを使用したマヌエル・バルエコ氏の演奏も録音では耳に刺さるため、ほとんど教材としてしか彼の演奏は聴きませんでした。
ラティスブレーシングは均一に格子状のブレースを配置することで、無機質な音になっているように思います。
ラティスであっても創意工夫により均一から脱却することで、血が通った音になるのではないでしょうか。
ただし、私が思いつくような意見はとっくに製作家の方が試しているような気がします。
(モノづくりと試行錯誤に長けた人達です)
桜井・河野ギターはラティスブレーシング?
桜井・河野ギターのブレーシングはファンブレースの要素を残しつつ、ラティスのようにブレースで表面板が細かく区切られています。
怒られるかもしれませんが、桜井・河野ギターは他のファンブレースを採用したギターに比べてかなり「ラティス寄り」な発想で作られているように感じます。
ギター弾きが思っているよりも、ラティスブレーシングのような発想は身近にあるということです。
桜井・河野ギターの音が刺激的でないことから、「ラティスブレーシング=攻撃的」というのは必ずしも成り立たないかもしれないと思っています。
強い音を好む製作家が音量を求めてラティスを好んで採用することが多いのかもしれません。
味付け次第で柔らかく大きな音も出せるのではないでしょうか。
表面板から腰や音の粘りが無くなるのは良くない
ラティスブレーシングの陥りがちな欠点として、表面板に腰が無くなり、すぐに音が出てしまうというデメリットがあります。
p~mfの間がコントロールしにくいということです。
メディア・カームの放談16において、河野ギターで「フォルテとピアノが出て、中間が出ない」という内容が記載されています。
(かなり攻めた記事です・・・)
この点からも、河野ギターはラティス的な要素があるのかもしれません。
(あくまで腰が弱い固体の話だと思います)
友人とこの話をしていて、当てずっぽうでこのデメリットがあるギターの名前を挙げたところ、まさにこの理由でその製作家の楽器(ラティス)を手放したことがあるという話を聴きました。
良い楽器(固体)は話が別
ただし、この「中間の音が出ない」という欠点は全てのラティスブレーシングのギターに当てはまる訳ではありません。
よく作られている楽器の場合は、ラティスを採用したギターでも音に粘り・腰があります。
ダブルトップはむしろ粘りがある例が多く、この欠点は起きにくいように思います。
近年の実用的なラティス・ダブルトップは指先の手応えと音が正しくリンクしています。
この欠点を解消できるなら、カーボン等の木材以外の素材を採用するのも良いのかもしれません。
(音質は悪くなると思いますが)
修理出来るのかどうか問題
ラティスブレーシングやダブルトップの楽器について「割れの修理は直せるのか」という問題があります。
単なるラティスブレーシングであれば直せそうですが、複雑なものは難しそうです。
私もこの点は分かりませんので、情報がありましたらまた記事にします。
以下に「アウラ ギターサロン」の記事を引用します。
尾野:僕らが伝統工法にこだわるのと同時にこういったモダンタイプのギターを製作しない理由としては、修理できない楽器は作らない、ということがある。ラティス構造にしてもダブルトップ構造にしても、その原理上、例えば割れなどが生じた場合でも非常に修復が難しい。作った本人はその辺りもしかしたら円満に解決しているかもしれないけれど。さっきの膠を接着剤に使用することも、これと関係がある、膠は熱を加えると溶けるので大がかりな調整の際にも比較的容易に対応できるわけ。
実際スモールマンの表面板を割ってしまった人が、製作家本人に修理を頼んだら表面板をまるごと交換になったそうです。
ヤフー知恵袋においても有意義な意見交換がされておりました。
ラティス構造のギターについて
オーストラリアのグレッグスモールマンみたいなラティス構造のギターは表面板が非常に薄いですが、やはり通常のクラシックギターに比べて割れやすかったり壊れやすかったりするのでしょうか?
よろしくお願いします。非公開さん
2014/6/17 23:21
構造的な強度は寧ろラティス(格子)力木の方が扇状力木より高いでしょうし、一点に掛かる負荷に対してはブレーシング方式とは無関係に板厚が薄い楽器が不利でしょうね。
但し今のところ、「割れた」、「穴が開いた」と云う話は聞いた事は有りませんね。fin********さん
2014/6/18 10:42
guitarzukiさんのおっしゃっているように、ブレーシングよりも板厚の方が割れるかどうか、という点では重要だと思います。
スモールマンタイプを専門的に作る製作家さんとの雑談中、やはり板厚が薄い物は強度の面では不利だと仰っていました。
だからこそサンドイッチ構造にしたり、カーボンを挟んだり、色々強度をあげる工夫をしてらっしゃるのでしょうね。ちなみに柴田杏里さんがスモールマンを叩いていたら割ってしまったという話を聞いたことがあります。
奏法や扱い方にもよるのでしょうが…。
杉はラティスもダブルトップも同じに聴こえる
このパートは私の個人的な感想です。
前半はなるべく論理的な正しさを意識しましたが、この部分は違います。
私は杉の楽器を使うことがなく、杉に関しては貧乏舌ならぬ貧乏耳です。
(良いフレドリッシュを弾いても「70万円位なら考える」という感想でした)
あまり参考にしないで読んで下さい。
海外のコンクールをYoutube等で聴くと、杉のラティスかダブルトップの楽器を使っている奏者が多いです。
ぼーっと聴いていると、どの奏者も同じ音色に聴こえます。
どの楽器も「杉の大きな音の楽器」というカテゴリーに振り分けてしまっています。
各奏者ごとに音楽そのものは全く違いますし、まともに聴けばダブルトップとラティスの音が違うことも分かります。
ただし、スペイン、イタリア、ドイツのようなギターの国籍の違いや特徴はあまり綺麗に聴こえてこないように感じました。
この点が、松が杉に勝っている点なのかもしれません。
階級別コンクール?
見た目は同じモダンギターだったとしても、「ファンブレース」と「ラティス・ダブルトップ」ではコンクール・コンペティションにおいて階級を分けても良いのではと思ってしまいます。
ファンブレースの楽器で音量を出そうとして飽和していると、音楽で競争する虚しさを感じます。
ギターのアイデンティティが「音量が大きい」になってしまうと、芸術としての付加価値が生まれません。
「音量が大きい」は当然として、そこに音楽的な個性をいかに持たせるかの流れが更に強くなって欲しいと思います。
今回の記事は以上となります。
最後までご覧いただき、誠に有難うございました。