感想(本や映画)

映画「マチネの終わりに」を観ましたので感想を書きます。

公開日である2019年11月1日、映画「マチネの終わりに」を観ましたので感想を書きます。

「マチネの終わりに」は小説が原作なのですが、映画として誰が観ても分かるように小説の繊細(曖昧?)な表現がはっきりとした描写に変更されていました。

これにより映像作品としてのエンターテイメント性を感じましたが、そういった中でも原作へ敬意を持って変更を行っていると私は思いました。

そもそも、原作の小説「マチネの終わりが表現したいこと」は極めて繊細で、あまり直接的な説明はしていませんでした。
「頑張った」「決意した」ということは軽くならないようにはっきり書かず、エピソードを通じて描写されます。
(受け取り方も人によって様々です)

映画版は、エピソードが分かりやすい前半は良いのですが、後半はちょっと味わい深さに欠けると思いました。

小説で後の伏線になっているやりとりが、単発のイベントになってしまった部分もあります。
例えば、「洋子さんが死んだら僕も死ぬよ」というセリフは、小説では物語の後半でその意味が明らかになります。

ただ、これ以上良い形で映像化するのは無理だと思うほど、素晴らしい出来でした。

ギター曲の選曲は素晴らしい、が…

映画に登場する曲を普段から聴いたり弾いているギターファンからすると、作品に集中出来ないかもしれないと映画を観る前は思っていました。

ところが、それぞれの場面にぴったりの曲が選ばれており演技の表現と演奏の調和を感じました。
ギターファンは大満足と思います。

私がちょっと気になったのは、難易度の高い曲(ソルの主題による変奏曲/M.リョベート等)で音が出きっていない部分や左手で音を引きずる箇所が沢山あったことです。

生演奏であればそんな部分は気になりませんが、クラシックギターが多くの人の目に触れることとなる映画のBGMとしては無傷を求めたいです。

難しい曲だけは、技術面に長けたギタリストを採用しても良いのではと思いました。

ヴィラロボスのガボットショーロは映像化に当たってテンポを落としたとのことですが、遅すぎるのではなく不用意にテンポが揺れすぎていました。
作中よりも下記の演奏の方が良いでしょう。

 

おまけとして、原作の作中で蒔野が紹介していたジュリアン・ブリームの演奏も張っておきます。

幸福の硬貨

映画では蒔野が洋子に「幸福の硬貨で何を手に入れるか」メッセージを送るシーンがありました。
原作の小説が表現していた幸福の硬貨の内容に比べて、映画版の幸福の硬貨に関する表現はちょっと表面的に感じました

この作品の中でしか存在しない映画「幸福の硬貨」を登場させる必然性を感じさせるまでには至っていないと思います。

原作では、洋子が映画「幸福の硬貨」のシーンを真似てリルケの「ドゥノイの悲歌」を朗読するシーンがあります。
ちょっとくどさも感じる場面ですが、この詩の内容が蒔野と洋子の関係の行き着く先を示しているようで、深い意味を感じました。

蒔野聡史について

福山雅治さんご本人がハンサムで声も低いので、思っていたよりは重厚なイメージの蒔野でしたが、凄く役に合っていたと思いました。
福山雅治さんが蒔野聡史を演じてくれて本当に良かったと思います。

演奏はどうか

福山雅治さん自身が映画のテーマ楽曲となる「幸福の硬貨」を弾いています。
お世辞抜きで、良い演奏だと思いました。

映画撮影の過密なスケジュールで仕上げたとは思えない繊細な演奏を披露していました。

とはいえ、完璧な演奏とまではいかないと思います。
当ブログは忖度しないことをモットーにしていますので、遠慮なく気になったことを書きます。

  • 恐らくクラシックギター以外のギターを弾くときの癖で、左手の肘が上がっていること
  • それにより上半身が奏者から見て右に傾くこと
  • 右手の親指のタッチがあまり良くなく、痩せた音になっていること

気になる点はあるにせよ、3ヶ月の練習期間であの上手さです。
今後、クラシックギタリストとしての福山雅治の演奏をもっと聴きたくなりました。

蒔野の葛藤とギタリストとしての再生

前半での洋子のやりとりで「人に与える影響に無頓着な蒔野」「他者への影響力を失うことを恐れる蒔野」を描いているのに、
その復活へ向けたターニングポイントとなるシーンはちょっと物足りませんでした。

レコード会社の是永との打ち合わせで、祖父江先生の追悼CDを出すと決めた場面です。

祖父江先生の死によって蒔野の心境に変化があったのだとは思いますが、
嫌になったのは蒔野さんの音楽を待ち切れない人たちです」の是永のセリフで、蒔野がギターの再開を決意したとはちょっと思いにくいです。

原作の小説のように「ジャリーラが体験した悲劇」「蒔野の演奏によってどれだけ彼女が救われたか」「それを目の当たりにした蒔野が何を感じたか」「映画には登場しない友人のギタリストとの会話」の全て描く時間が無い以上、致し方無いと思います。
(ジャリーラはちょい役になっていました。)

映画でも、洋子が蒔野の演奏に対する思いをパリのマンションで伝えますが、演奏家としての復帰は大分期間が空いてからのことです。

CDに託した友人へのコメント

追悼CDに友人へのコメントを書くのは、映画化した中で1番失敗した部分だったと思います。

原作では、「ジャリーラと洋子への感謝の気持ち」や「友人のギタリストとのやり取り」を通じて、ジャリーラと洋子に捧げるCDを出すことを決意します。
そのため、彼らへのメッセージをCDに掲載することは必然性があり、その内容も極めて短いものでした。

「恩師の追悼CDに個人的なコメントを掲載する」のは、軽薄さはありつつも極めて繊細な蒔野のイメージとは大きくかけ離れた行動です。

祖父江の死が演奏家としての復活のきっかけになったことを表現したかったのかもしれませんが、原作には無い部分なので、大きな違和感がありました。

映画で1番の傷だと思います。

小峰洋子について

原作の小説に登場する小峰洋子は、映画監督のイェルコ・ソリッチと日本人の母親のハーフで、特徴的な描写がある外見とされていました。
そのため、外観的な要素で洋子のキャスティングが合うかどうかは、私は全く気にしていませんでした。

石田ゆり子さんの優しくも芯のある演技は、小峰洋子を良く表現していると思いました。
福山雅治さんと同様に、石田ゆり子さんが演じたことで本当に良い作品になったと思います。

唯一原作のイメージと違ったのは、「三谷早苗から真相の告白を受けた時」に彼女の前で僅かに涙ぐんだところ」です。
原作では三谷に「あなたの幸せを大事にしなさい」と伝え、別れた後に涙を見せますので、原作の三谷の前では毅然としていた洋子とは少しイメージが違いました。

父ソリッチとの関係

洋子の父ソリッチへの態度はもっと積極的に描写しても良いのではと思いました。
(あまり時間もかからなそうです)

洋子が父であるソリッチに抱くのは「自分と母親から離れていった父というには距離のある人」という微妙な感情です。

父のことを良く言わない洋子をはっきりと印象付けることで、母親から離婚の真相を聴かされた時の観る側の受け止め方が大きく変わることとなります。

原作を知っていて勝手に補完していた私は、洋子の母親の告白にとても感動していましたが、背景を知らない人はそれ程心に残らないのではと思います。

洋子の母親は、長崎のお婆ちゃん的なキャラで原作のような説明はほとんどありませんでした。

婚約者リチャードとの関係

原作の小説において、洋子がリチャードとの関係を悪化させたのは「蒔野との浮気」や「リチャードが単にお金儲けばかりしていたから」が本質では無いはずです。

原作で洋子がリチャードに抱いていた不満をはっきりと示したのは「お金儲けにばかり目が向いていること」ではく、「金融のリテラシーが無い人を騙すような手段でお金を稼いでいたから」でした。

ジャーナリストとしての洋子が見せるような「正しさ」は、リチャードにとっては自分と子供を優先しない「冷たさ」に写っていたわけです。

最終的にリチャードは浮気していますが、本来2人は深い理由で相容れず、別れています。

三谷早苗について

映画化するにあたって、主人公2人をなるべく変更しないようにした結果、三谷早苗の描写が最も大きく変更されていたと思います。

蒔野と洋子は、普通とは違った感性を持っていると原作では説明されていますが、映画において三谷早苗も独特の信念を持った登場人物として描き切っていたと思います。
思い切った判断で、それによってこの映画が良いものになっていると感じました。

蒔野と結婚した直後の三谷早苗の描写が無かった

映画のオリジナル要素として、物語の最後に蒔野がニューヨークでコンサートを開催するために三谷は奔走します。

その行動に関する理由を裏付けるものとして、結婚してから蒔野が演奏出来ない期間の三谷の葛藤に関する描写が必要なのではと思いました。

三谷が洋子に真相を告白するシーンでは、原作のように、洋子が早苗の発言から真相を察する方が自然だとは思います。
しかし、映画では三谷が自ら洋子に真相を伝えます。
原作とは真逆に「演奏会に来てほしい」とまで言います。

「嘘をついたら蒔野が復活出来ない気がして」という三谷早苗の信念がそれを決断させたという描写だったのですが、最初から真っ直ぐな信念があったとしたら、嘘のメッセージを送ったりはしないのではないでしょうか。

「正しく生きることが私(三谷)の目的ではない」「蒔野の人生の脇役で良い」と三谷は言っていました。
しかし、「蒔野の演奏の不調は洋子のせいである」と三谷早苗が思い込んでいるという説明があまり無く、単なるの嫉妬で嘘のメッセージを送ったように見えました。

映画における終盤の三谷早苗はどこか吹っ切れたようなところがあり、この変化が起きた原因は説明が欲しいです。
洋子に会うかもしれないコンサートに向かう蒔野を送り出すシーンも、映画版の三谷早苗独特のもので、寂しさや苦しみがありながらもはっきりと決断したものでした。

恐らく三谷早苗は、洋子にCDを渡すと決めた際に「祖父江の追悼CDに蒔野が書いたメッセージを読んでいる」と思います。
原作は一言「ジャリーラとその美しい友人に捧ぐ」だけでしたが、映画版のボリュームがあるメッセージは流石に三谷も目を通しているでしょう。

映画の三谷早苗は蒔野を洋子に合わせるべく思い切った行動を取ったわけですが、
この変更により登場人物全員に救いがある結末になったのではないかと思います。

 

小説と全く同じ内容の表現を目指すと、3時間半になってしまうと思いますので、
映画版「マチネの終わりに」は要点をまとめ、エンターテイメント性を加えた非常に良い作品だったと思います。
近日、小説に関する考察を投稿予定です。

最後までご覧頂き、誠に有難うございました。